お四国の道標

古き昔からの言い伝え(10番 得度山、灌頂院、切幡寺)


 切幡山の山麓に機を織る乙女がいた。  空海はほころびた僧衣を繕うために布切れを所望した。乙女は織りかけていた布を惜しげもなく切って差し上げた。大師はこの厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねた。
 乙女は、「父は都で薬子の乱(810)に関連し島流しとなり、母は身ごもっていたが、男子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれますようにと観音様に祈願し、やがてこの地で産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代り、観音様をつくってお祀りし、私も仏門に入って精進したい」と願いを告げました。
 大師はつよく心を打たれ、さっそく千手観音像を彫像し、乙女を得度させ灌頂を授けました。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身したと伝わります。
 得度山・灌頂院・切幡寺の名称もこの由縁によります。

右衛門三郎伝説 (遍路の始祖とも伝わる)

 伊予の国。荏原の荘の長者 右衛門三郎(えもんさぶろう)は財宝倉に満ち、勢近国に稀な豪族であった。 強欲非道なこの長者は貧しい者を虐げ、召使共を牛馬のごとくこき使って栄華の夢に酔いしれていた。
雪模様の寒い日、その門前に一人の旅僧が訪れた。 乞食のようなみすぼらしい旅僧は一椀の食物を乞うた。 下僕の知らせに右衛門三郎は「乞食にやるものなぞない、追っ払え」と言い捨てた。 そのあくる日も次の日もと七度訪れた。 ついに右衛門三郎は怒気満面、いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を大地に叩きつけたとみるや、鉄鉢は八つの欠片となって四辺に飛び散った。 唖然と息を呑み棒立ちとなった右衛門三郎がふと我に返った時には旅の僧は煙のごとく消え失せていた。

長者には八人の子供があった。 其の翌日、長男が風に散る木の葉のごとくこと切れた。 其の翌日には次子が亡くなり、八日の間に八人の子供が亡くなった。 鬼神も恐れぬこの長者も恩愛の情に悲嘆し初めてこれが己の悪業の報いかと、身に迫る思いを感じた。 空海上人とか申されるお方が四国八十八カ所をお開きになる為、此の島を遍歴なされているとか、我が無礼を働いたあの御坊こそ、その上人と思われる。 過ぎし日の御無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心し、懺悔の長者は財産を処分し、妻と別れ、住みなれた館を後に野に山に寝、四国霊場を大師を訪ねて遍路の旅を続けた。

杖杉庵(焼山寺麓)


春風秋雨、行けど廻れど大師の御姿に会うことはできなかった。 ついに霊場を巡ること二十度、切幡寺より逆に巡って二十一度、疲れた足を引きずりつつやっとの思いで焼山寺の麓にたどり着いた。 どっと疲れが出て腰は上がらず、足は立たなくなった。 身体は衰弱しきっていた。 そして、夕冷えとともに意識は薄れていった。
折しも大師の御姿が現れ、やさしく呼ぶ声が聞こえた。 「やよ、旅の巡礼、そなたは過ぎし日 わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」との御声。 「われは空海、いつぞやの旅僧なり」。 もうろうとする中で右衛門三郎は「ああ上人さま、お許しなさいませ、お許しなさいまし」と伏し拝み、懺悔の涙をはらはらとこぼし、手を合わせた。 大悲にすがるその姿は、今こそ悪業深き無明の闇から光明世界へ還らんとする姿でもあった。 「そなたの悪心すでに消え、善心に立ち還った。 この世の果報はすでに尽きたり、来世の果報は望みに叶うであろう」と仰せられ、右衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ「来世は一国の国司に生まれたい」と願った。 大師は其の心を憐れみ、小石を其の左手に握らせ、必ず一国の主に生れよと願い給い、右衛門三郎は大師に手をとられながら息を引き取った。

大師は右衛門三郎の亡骸を埋め、彼の形見の遍路杖を建て墓標とされた。 其の日は天長八年十月二十日(*閏年でした)と伝えられる。 後にその杖から葉を生じ大杉になった。此の由に、この場を杖杉庵と呼ぶ。
言い伝えに、天長九年七月とも或いは三郎の噂も消えかけた頃とも申すが、河野伊予守左衛門介、越智息利に一子誕生し息方(やすかた)と名づけ、国中挙げて喜び祝ったことであったが、その子はどうしても左手を開かずにいた。 近くの安養寺にて祈願したところ手を開き、中から右衛門三郎と書かれた石が出た。 息利は大いに喜び、安養寺の諸堂を修理再建し、其の石を奉納したという。 安養寺はこれにより石手寺(51番)と寺名を改め今に至っている。
右衛門三郎の杖は大杉に育ったものの享保年間に焼失し、その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ、今も立派な墓標が建立されその横には二代目の大杉が繁っている。

うるう年に逆打ちをすればお大師様に会える・功徳があると伝えられているのはこの伝説に因ります。 

でも、この伝説は「つくり話嘘話」とも云われています。 何故ならば、衛門三郎の無礼に応じてお大師様が罪もない八人の子供の命を奪うという極悪非道で無慈悲な仕打ちをすることなどありませんし、論理的整合性など全くありません。 遠い昔の統治手法愚人化策と称します。、市井の無知な大衆に対して僧侶等への盲目的な服従を求め、恐れを抱かせて統治するため技法、上から目線の方便であり、つくり話・洗脳技法なのでしょう。 バス会社等が吹聴する「閏年は逆打ち」などの世迷言に惑わされないようにされてください

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