お四国の道標

21番太龍寺 舎心ケ嶽(太龍嶽)

空海は19歳の頃、標高610mの左の岩場上で虚空蔵求聞持法を修行されたと「三教指帰」記されている。 「舎心」は「捨身」の意であり、大師の修行場は全て「捨身」の気迫と覚悟が感じられます。 
大師の修行場として名高い所は他に御厨人窟、逼割禅定、石鎚山などあるが、いずれの場も僅かの油断で命を落しかねない危険性を秘めている。 当に「捨身、命懸けの修行場」である。

舎心ケ嶽から阿瀬比地区に繋がる旧来の遍路道(いわや道・平等寺道:所要約2時間)5.5kmが復活しています。大自然に抱かれる心地好い遍路道です。


太龍寺大師堂奥に御廟が設けられています。 御廟の前に進み勤行されてください。

太龍寺は「西の高野」とも呼ばれ、高野山と同様の造りとなっています。
太師堂には様々な彫刻が施されており、見事です。


24番最御崎寺 御厨人窟(みくろど)

室戸岬の突端にあり、黒潮のしぶきにあらわれた黒い岩礁。 空と海が一体となり襲いかかる洞窟に、藤衣を被って求聞持法に修法する若き空海。 
三教指帰に次のように記されている。「…土州室戸岬に勤念す 谷響を惜しまず 明星来映す 心に感ずる時は明星口に入り 虚空蔵光明照らし来りて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す…」、ここは空海「小悟」の地。

ここから映る「空」と「海」。
「空海」の名はこの地で感銘を受けたから、と伝えられる。

 

現在は安全の為に柵を設け、窟内への入場が規制されています。


室戸岬は地震の度に海底が隆起した岬です。1,200年以前では、御厨人窟付近の岩場は海面下であったとの分析もあります。 このことから空海「小悟」の地は行当岬「不動岩」とも云われます。→海側に突き出た不動岩の断崖には二つの窟が在り、波しぶきを浴び、雨風に晒される、行当岬の不動岩が青年空海の修行の地と伝わります。


「太玄塔」の謂れ。太玄和尚を讃えて建立された。

山本玄峰(慶応2年〜昭和36年)
和歌山県湯の峰温泉で誕生、生後すぐに捨てられ、通りかかった岡本善蔵に拾われる。 芳吉と命名され岡本家の後継ぎとして養育される。 19歳の時、眼病を患い失明。 絶望した芳吉は投身自殺の覚悟を決め彷徨、新潟出雲崎で行き倒れるが助けられる。

一念発起し、眼病平癒を祈願し四国遍路はだし参りを行うが7回目途中、33番雪蹊寺で行き倒れる。 この時、雪蹊寺住職の山本太玄和尚に助けられる。 芳吉は感じるところがあり、太玄和尚に「盲目の自分でも坊主になれるか」と尋ねた。 太玄和尚は芳吉に向かって「親からもらった目は老少不定で、いつの日にか見えなくなる。
しかし、心の眼は一度開けばつぶれることはない。 お前さんは、心眼はまだ開いておらぬが、開く気になれば開く。 文字を知らねば経読み坊主にはなれないかも知れぬが、通り一 遍の経読み坊主なら幾らでもいる。 死んだつもりになってやれば、本当の坊さんになれる。」と諭した。

芳吉は仏門に入り、その後もはだし参りを続け12番 焼山寺の通夜堂でたまたま隣同志となった、お婆さん遍路に身の上話をした。 翌朝、お婆さんは「不思議な夢を見た。あんたの目が見えるようになる夢じゃっ た‥」といい、先に発っていった。 後を追うように山門に向かった。 その山門を出た途端、「えっ」と立ちすくんだ。ほんのわずか、目の中に光が入ってきたの である。 うっすらと向こうの山が見える‥。
明治23年、芳吉25歳の出来事であった。

山本太玄和尚の体調悪化の報にふれ、養子縁組し33番雪蹊寺住職山本玄峰となる。  山本玄峰は「白隠の再来」といわれた名僧で後に臨済宗妙心寺派管長に就任する。
太平洋戦争終戦直前に、時の鈴木貫太郎総理が指導を仰いだことはつとに有名。 終戦勅語にある「時運の赴くところ耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かんと欲す‥」は玄峰和尚のアドバイスと云われている。

土佐の国、33番 雪蹊寺


12番焼山寺山門
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