お四国の道標
同行二人 … お四国を歩く。
“お四国”を巡る
一笠一杖を持ち、辛苦を厭わず、世塵を忘れ、清浄心に立ち還る 修行の路。
唯、飄々と “お四国” を巡る功徳。
* お四国の遍路道には 教訓が含まれています。 平坦な道を歩み 急峻な坂道も登る、大汗をかいた後には 穏やかな遍路道を歩く、 「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」 修行の路です。 お遍路さんを 迎え入れてきた お四国1200年の歴史は、実によくその道順を組立て 現在に残してくれています。
遍路に必要なだけの荷を リュックで背負い、一笠一杖を持ち、世塵を忘れ、ただ飄々と 「お四国」を自分の足で巡る修行の路。 これこそ “遍路の神髄” だと思います。
ただ、忘れないで欲しいのですが、「 手軽な巡り方や 安易な参り方 をすれば、後に 悔いが残り、自分の心に 嘘が残ってしまいます。」 「 安易(らく)を選ぶと心残りや悔いが 覆い被さってきてしまいます。」 のことです。 これは 逃れられない現実 です。 ご自分に無理強い(ケガや疾病、準備不足や実力オーバーの無謀プラン等)しない範囲 で、手抜きをしない ・ 手間を省かない ・ 悔いを残さないような歩き遍路で、ご無事の結願 を目指されてください。
お遍路は お遍路の道筋で“出会いを通して自分自身に出会う”のです。
* 道中のいたる所に「一期一会」の芽吹きがあります。 修行とは、その時その場の出会いに応じて自分の心に悔いを残さない行動が求められます。 「天知る、地知る、人知る、そして我も知る。」の言葉がありますが、この「我」に悔いを残さないように努めつつお四国を巡ってゆきます。 お遍路修行での「一期一会」は厳しく怖いものですが、歩きを重ねるに連れて修行も少しづつ心地好いものに変わってゆくように感じます。
四国八十八ヵ所 『 道 標 』
“四国”と“お四国”は違います。
貴方がスーツ姿で鞄を持ち市街地を歩いていても、それは何処にでもいるビジネスマンであって通りすがりの他人です。 でも、貴方が白衣姿で杖を持ち、菅笠をかぶって四国を歩けば 貴方は1200年にわたって育まれた“お四国遍路文化”の登場人物となり、貴方は その主役となっているのです。
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左は川島町、右に鴨島町、中央は四国三郎「吉野川」です。
焼山寺へんろ道からの眺望(標高約450m)です。
「お四国には、何かいいことがあるんですか?」 「しんどいのに何故歩くんですか?」と尋ねられます。
私の返事は 「お四国はいいですよ。いつか機会を見つけて歩いてごらんなさい。」です。
やっぱり 歩いてみるとわかるんです。
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「札所巡りや霊場巡り」と「歩き遍路」とは全く違います。 「札所巡りバスツアー」などは、お遍路の“歩くという原点”から遠くかけ離れていますので昔からのお遍路とはいえません。 お遍路といえるのは「歩き遍路」のことです。
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バスツアー等に参加の「団体さん」は、敷かれたコースに従い団体構成員の一員として従属的に巡るだけですので主体性があるとはいえません。 お遍路は自らの発心でお大師様の足跡を歩いて巡る「修行の旅」です。 自由自在・自主自立を大切にして、主体性を失わないようにされてください。
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お遍路は、お大師様の修行された四国の山野の足跡を徒歩で辿る修行をいいます。 だから、修行の足跡を徒歩で辿り巡ることが「主」であって、道筋に散在する札所寺院に立ち寄ることは「従」なのです。
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歩き遍路の道中で、忘れ去ってしまう感覚があります。 最初に失う感覚は「曜日」の感覚です。次に失う感覚は「日付」の感覚です。その次に失う感覚は「昨日」の感覚です。 不思議ですが、「昨日」を失い忘れると悩みがなくなりますし超リラックスの状態となります。 一歩一歩に一所懸命です。 だから、毎日ヘトヘト・クタクタに疲れても気分は心地好いのです。 人生に疲れ果て、現実逃避傾向で、うつ病等のような気分になりかけている方々も引きこもり気分の方々も 是非「歩き遍路」にお出かけください。 明日に向って自然と道が拓けると思います。 お四国は 自分で気づき 自分自身が自分に目覚める 「人生立ち直りの病院」です。